『五輪書』とは、「ごりんのしょ」と読み、かの剣豪、宮本武蔵が60歳から書き始め、62歳で亡くなる直前の1645年に完成したと言われる、武道哲学書です。
剣の道を究め、その先に見出した彼の哲学が込められた五輪書は、勝負事に対峙するための秘訣が多く書かれています。
現代社会においては、実際に剣を手に取って戦う、ということはないと思いますが、現代においても、スポーツやアート、そしてビジネスなど、いたるところに戦いは存在しています。
本ブログでは、宮本武蔵が残した五輪書から、現代にも活かすことができるのではないと思われる考え方あるいは哲学を探っていきたいと思います。
五輪書は、「地之巻」「水之巻」「火之巻」「風之巻」「空之巻」の全五巻から構成されています。
それぞれの中身を追っていきましょう。
地之巻
地之巻には宮本武蔵が考え出したとされる兵法が記されており、勝利に到達するための原理原則がまとめられいます。
武蔵はまず、その地之巻の冒頭で、文武両道を説いています。
学問と武芸、両方を磨きなさい、ということです。
その真に意味するところは、あらゆる状況に応えることができるよう、いかなる状況においても最善の選択をできるよう、多方面から準備をしておく、ということにあります。
武器一つとっても、刀のみならず、槍や弓や銃も理解しておくべきだし、それぞれがどんな場面で最も力を発揮するのか、ということも理解しておくべきだと説いています。
また、刀についても形式美で大小を腰にさすだけではなく、携帯する以上はいずれも適切な場面で使いこなせるようにしておくべき、と説いています。
その上で、単にそれを武器の知識に留めず、幅広い事柄に応用できるよう、常に視野を広く保ち続けることの重要性を説いています。
さらに、勝つためには上記の知識や技術のみならず、拍子、現代的に言えば時流を読む能力も重要だと、説いています。
これを経営哲学として開くと、自分が属するフィールドを熟知し、多方面の視点を磨き続け、常にベストな判断基準を養っておく、ということではないでしょうか。
こう書くと当たり前のことに聞こえますが、武蔵が五輪書を書いたほぼ400年後の現代においても色あせない真実であるという点に、新鮮さを覚えます。
そんな武蔵が、土之巻の最後に、これまで述べたこと(兵法)を学ぶための修行の掟を記しています。
①正しいことを考えて、邪心を持たないこと。
②頭の中だけではなく、実生活の中で工夫し鍛えること。
③兵法以外のいろいろなことにも関心を持つこと。
④他人の職についても知ること。
⑤物事の損得を熟慮すること。
⑥物事の本質、本物を見分ける力を持つこと。
⑦判断力や洞察力を養うこと。
⑧小さいことにも注意を怠らないこと。
⑨無駄なこと、非合理なことをしないこと。
掟と言いつつ、例えば、判断力や洞察力を具体的にどうやって養えばいいのか、といった疑問は残りますが、以上、「地之巻」でした。
水之巻
水之巻には、武蔵が編み出した流派、二天一流における戦いへの構えが、身体面そして精神面から書かれています。
構え、という型にはまったものを、形がない水で表現する点、武蔵の考え方が現れています。
武蔵は、水の心を「どんな容器に入れられても、あるいは水滴や海の状態であっても、常に一定で変わることがない」ものととらえており、我々も水のように「心を広くまっすぐに、緊張しすぎず、緩みすぎず」あるべきだと説いています。
さらには、何か特定のことに気をとられて心が偏ることがないよう「ゆらゆらとたゆたう流水のように心を保つ」と説いています。
一定の考え方にとらわれず、驕らず、それでいて焦らず、これが理想の状態だと言っています。
そんな心の状態を実戦でも発揮するために、武蔵は日常の身のこなしと戦場における身のこなしを同じにしなければならない、と考えています。
現代においては文字通りの戦場に身を置くことはありませんが、勝負のプレゼンやレースなど、類似する場面は少なくありません。
そんな場面になって急に、いつもやらない特別なことをするのではなく、常日ごろから、心身ともに本番と同じ状況を想定して動くこと、ということになります。
武蔵は、ものの見方も説いています。
ものの見方には二種類あり、一つは「見の目=目を開いて目に映るものを現象として見ること」で、もう一つは「観の目=現象として見えるものの裏側にある本質や相手の心を見ること」です。
本番においては、見の目よりも観の目のほうが重要だと武蔵は考えています。
そのために、ひたすら目の鍛錬と工夫を怠らないように、と説いています。
以上は、精神面の構えについてでした。
次に、身体面の構えについて述べられています。
剣は、決して強く握らない、硬直して動きが止まることがないようにすべし、とあります。
足は、足裏全体で強く地面を踏みしめるのではなく、つま先を少し浮かせて踵を強く踏み、どちらの方向にもすぐ動けるようにすべし、とあります。
実際の剣の構えにおいても、上段・下段・左脇・右脇のいずれにも素早く転じることができる中段を基本とし、特定の型に固執することなく、状況や敵の出方次第で臨機応変に変えるべし、とあります。
これらの考え方を武蔵は「有構無構」と言っており、構えは有って構えはない、ただ相手を斬るという目的のために、もっとも振りやすい位置に刀をおくことが重要である、と説いています。
形だけを優先して、形骸化させてはいけない、ということです。
手段にとらわれて目的を見失うことがあってはなりません。
まさに、心も体も、水のようにしておくべき、ということでしょう。
武蔵は、これらを基本として、実際に敵を倒す方法をいくつかまとめています。
・一拍子の打
敵と向かい合った際、敵が攻めるか守るか迷っている一瞬のうちに先手を打ち込むこと。
ただし、先手をうつことにとらわれてしまうと、特定の考え方にとらわれて水の心を失い、隙がうまれ、相手に逆手をとられますので、注意が必要です。
・二の腰の拍子
相手が先手を打ってきた際、逆にこちらから仕掛けると見せかけて相手の緊張を誘い、相手の腰が引ける一瞬の気の緩みを逃さす打ち込むこと。
・無念無想の打
相手と自分の打ち込む瞬間が重なった場合は、自分の鍛錬を信じて、考えるより先に反射的に体を動かし打ち込むこと。
この実現には、無心の状態である必要があり、常日頃から本番と同じ状況を想定した鍛錬を積むことが重要です。
・流水の打
相手と自分との力量が五分五分の場合、焦らず敢えてゆったりと、相手の流れが沈むように大きく強く打ち込むこと。
こうすることで相手を自分のペースに引き込み、相手の隙を引き出します。
・縁のあたり
相手に打ち込もうとした際、相手がとっさに防御姿勢をとったとしても、打ち込むことをやめず(無駄にせず)どこか刀があたりそうなところへ打ち込むこと。
最初につけた狙いがはずれても、そこにとらわれず、勝てる可能性が次に高い選択肢を臨機応変に選ぶ、ということです。
・石化のあたり
相手との間合いが密着していて構えをとることができない時、刀を引かず、むしろ全身を総動員して迅速かつ強力な一撃を打ち込むこと。
武蔵は、意図的な結果を「打ち」と表現し、偶発的な結果を「あたり」と表現しています。
そして「打ち」を武蔵は評価しています。そこには、根拠あるいは再現性が存在するからです。
そのために、意識的な目標達成が重要で、偶然的に転がり込んだ勝利は、人を育てないと考えています。
以上、何事にもとらわれない心と体の重要性について武蔵の考え方がよく分かる「水之巻」でした。
火之巻
火之巻には、戦いにおける戦術・戦略に関する武蔵の考え方がいくつか記されています。
・場所次第といふこと
まず武蔵は戦いにおける場所選びの重要性を説いています。
相手に不利で自分に有利なポジショニングをとる、ということです。
剣を交える場においては、太陽あるいは火などを自分の背後あるいは右脇に置くように立ち回るように、あるいは自分の左側は大きく開けて右側は壁などに沿った位置が好ましい、という具体的な示唆がありますが、要は、戦う前からポジショニングで相手より有利な状況を獲得せよ、ということです。
ビジネスやスポーツにおいても、このポジショニングは非常に重要で、いくら力があっても、ポジショニングを怠ると、よい結果につながりません。
・三つの先といふこと
戦いにおいては、先手をとることで状況を有利に進めることができるケースが多いですが、その先手の取り方には3種類あると、武蔵は言っています。
1. 自分から相手にかかって先手をとる「懸の先」
2. 相手に先にかかってこさせ油断させてから逆に一気に踏み込んで先手をとる「待の先」
3. 自分と相手が同時に先手をとりにきた場合に拍子を崩して相手の隙を誘って先手をとる「躰々の先」
ただし重要なのは、水之巻にもあったとおり、先手をとろうとすることに固執しないことです。状況次第で柔軟に切り替えていくことが重要です。
・敵になるといふこと
自分の身を相手の身に置き換えて考えることで、相手の弱点や脅威を知ることです。
これもビジネスやスポーツにおいても、そのまま適用できる考え方でしょう。
逆に、相手が自分より強いと思い込み、慎重になりすぎてその場に留まってしまうこと、これが一番危険だと武蔵は説いています。
・新たになるといふこと
自分の作戦や計画がうまくいかないと感じたら、その計画に固執することなく、勇気をもってその計画を白紙に戻し、相手の意表をつくような新たな計画に切り替えることです。
とにかく、何かに固執してしまうことを、武蔵は嫌っています。
・陰を動かすといふこと
相手の本心や狙いがどうしても分からない場合、いったんこちらから強硬手段に出て、それに対する相手の出方を見てからさっと退き、相手の考え方や手の内を知った上で策を考える、ということです。
要は、手持ちの情報だけでは判断しきれない時には、相手の本心をあぶり出すようなアクションを一気呵成にとり、その上で、相手の先手を取ることができる方法を考え出す、ということです。
・むかつかするといふこと、おびやかすといふこと
これらはいずれも、相手の平常心を崩すかく乱の重要さを説いています。
人が平常心を失うのは「危険に直面した際」「困難に遭遇した際」「予想外の展開が生じた際」だと武蔵は言っています。
いずれにしても、こうした状況を意図的にこちらから仕掛けてつくりだして相手の平常心を崩し、そこに隙を見出して、一気に攻め込む、というものです。
・ひしぐといふこと、底をぬくといふこと
これは、戦いに対する武蔵の考え方が強烈に表れているものでしょう。
相手が弱気になっているときや、相手が未熟な時、そんな時こそ躊躇せずに徹底的にたたきのめすこと、ということです。
武蔵としては、相手に立ち直る機会を与えてしまえば、いつまた自分の命を狙われるか分かりません。だから、二度と立ち向かってこないようにしてしまう、という考え方です。
・山海の心といふこと
同じ過ちを2回やってしまうことは仕方ないとしても、3回繰り返すのは絶対に避けなければいけない、という考え方です。
例えば自分の得意技が1回目、不発に終わったとします。ただ、それは偶然かもしれません。だから2回目の挑戦はOK、ということですが、一方、2回目ももし失敗したとすると、3回も同じことはするな、ということですね。
いかに得意技といえども、固執してしまってはいけない、という武蔵らしい考え方です。
・鼠頭午首といふこと
時と状況に応じて、鼠(ねずみ)のもつ注意深さと、午(うま)のもつ大胆さを使い分けよ、という考え方です。
いかなる状況においても、終始同じような考え方に固執するな、ということですね。
武蔵は、こうした具体的な戦術をもって、百戦錬磨、勝ち残ってきたのです。
さて、いよいよ残すところ「風之巻」「空之巻」の2巻だけです。
実は、この2巻はこれまでの3巻と比べてそもそもの文量が少ないものとなっています。
風之巻
ここには、武蔵による他の剣術流派についての批判が書かれています。
形や見た目にばかりこだわってはいけない、実戦で使えなければ意味がない、という武蔵の考え方が多くみられます。
達人の域に達するには神秘的なものに頼るのではなく、合理的な方法の積み重ねでしか到達できない、と説いています。
空之巻
武蔵は、剣を極めることで自分が達した境地を「空(くう)」と表現しています。
空とは、定まった形のないこと、いや、そもそも形を知ることができないものです。
何かを会得するために鍛錬を積み、極めた先に、実は何もないことを知るのだ、という逆説的な考え方が展開されています。
その時、一切の迷いの雲が晴れ、空の状態に達する、とされています。
そこに、何にもとらわれない無限の広がりを強く感じるだろう、と武蔵は説いています。
以上、宮本武蔵「五輪書」から、現代にも活かせる考え方を追ってみました。
皆さんの日々の生活の中で、何かしらの一助になれたら幸いです。
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